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東京地方裁判所 昭和62年(合わ)98号 判決

主文

被告人を懲役二年に処する。

未決勾留日数中五〇日を右刑に算入する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和五九年三月国際商科大学商学部を卒業し、しばらく会社員等をした後、同六〇年七月から東京都渋谷区桜丘町《番地省略》甲野ビル(登記簿上の所在は同町《番地省略》、鉄骨鉄筋コンクリート造陸屋根地下二階付八階建、延床面積六〇三〇・八五平方メートル)の三階内に事務所を置く財団法人産業保健研究財団付属乙山会診療所に勤務し経理事務を担当していたものであるが、同六一年末ころから女子である自分一人に右経理事務をすべて任せられるようになったのに、その事務処理を著しく遅延させて同六一年度分の会計帳簿類の整理なども未了の状態のまま推移させてしまい、これを苦にしていたものの、大学卒の自己に対する信用を損なうことなどを嫌って、右の状態を上司らに打ち明けることもせず悶々としていたところ、右診療所に対する河村豊公認会計士による同六一年度の会計監査が同六二年五月一四日に同ビル八階会議室で実施される運びとなり、右監査が右予定どおりに行われるにおいては、自己の前記事務処理の遅延が発覚して上司らの信頼を失うどころか、厳しく叱責され、果ては解雇されてしまうかもしれないなどと思い悩み、同月一三日から翌一四日午前九時過ぎころにかけて、右河村が監査実施場所である右ビルに来られないようにするため、同人らに対し、同ビルその他の各所に爆弾を仕掛けたなどという内容虚偽の電話を掛けたが、所期の右目的を達するまでに至らず、遂に同月一四日午前一〇時ころ同人らが右会計監査のため同ビルに到着するに及んで、ますます追い詰められた心境になり、そのころ、たまたま前記事務所の棚の上に置かれた紙マッチを目にした際、自己の前記事務処理遅延の発覚を免れるため、監査に供する会計帳簿類に火を放ってこれを焼失させようと決意するに至り、同日午前一〇時一五分ころ、人目を忍び、急いで前記八階会議室に赴き、同室西側の板壁に接して置かれた机の上に既に監査のため右板壁間近に積み上げていた前記財団法人所有にかかる会計帳簿類に所携の前記紙マッチで点火して火を放ち、右会計帳簿から右板壁に火を燃え移らせ、右板壁を炎上させてその一部(約〇・三七平方メートル)を焼燬し、もって公共の危険を生ぜしめたものである。

(証拠の標目)《省略》

(主位的訴因を認定せずに予備的訴因を認定した理由)

本件の主位的訴因は現住建造物等放火罪であって、要するに、被告人は、判示会議室西側板壁に接して直近配置された机上の右板壁間近に積み上げられた会計帳簿類に点火すれば、右板壁に燃えることを認識しながら、あえて火を放ち、他人の現在する建造物(甲野ビル)を構成する右板壁の一部を判示のとおり焼燬した、というものである。しかして、右会議室西側の壁(以下、本件壁という。)は耐火ホードを芯にベニヤ合板という燃え易いものが張られてできており、かつ、これに接して机が置かれ、その上には本件壁のごく間近に合計約二〇冊の会計帳簿類が四、五冊ずつの塊に分けられて数か所に積み上げられ、しかも、右のような机及び会計帳簿類の配置をした者はほかならぬ被告人であったことは本件各証拠上明白であり、右各事実のみからすれば、被告人において、右帳簿類に火を放てば当然本件壁を焼燬するに至ることもあり得ると認識・認容していたはずであると推認することもあながち無理とまでは言えまい。しかしながら、被告人は、当公判廷で、終始、自分は右帳簿類だけを燃やす意思でこれに火を放ったにすぎず、後日に至って冷静に考えてみれば、本件壁への延焼を予期すべきであったけれども、本件犯行当時においては、本件壁の材質が実はベニヤ合板張りのものであったとも知らず、また判示のとおり、とっさの犯意に基いて急遽会議室に赴いて右点火したもので、本件壁への延焼を予測するだけ時間的、心理的余裕など無かった旨述べ、捜査段階でも、検察官に対してはほとんど同旨のことをほぼ一貫してかなり詳細に述べているのである。そして、被告人がそもそも本件放火をなすに至った動機は、判示のとおり、河村公認会計士の会計監査の実施により自己の担当する事務処理の遅延の発覚を防ぐというにすぎないのであって、右のためには、壁の一部にせよ本件ビルの焼燬まで敢行しなくても、会計帳簿類の焼失のみで足りると見るのがごく自然であり、更に、前掲関係各証拠によれば、本件壁はその表層をなすベニヤ合板が生地のままむき出しに張られてなどはおらず、白色様に体裁良く塗装が施され、右化粧板を一見しただけではその材質の判別などはできず、通常の白壁にさえ見えるものであり、被告人も三階の勤務先事務所内ではなく、普段あまり出入りはせず本件の際を含めて一〇回ぐらい入ったことのあるにすぎない八階の前記会議室に存在する本件壁の材質はこれを見極めてはいなかったものと推認できること、本件放火はこれまた判文でも触れたとおり、あらかじめ練りあげた計画的な犯行などではなく、右河村が右事務所に来訪した際たまたま同事務所の医師に膝の診察を受けることとなって、暫時、診察室に右両名が赴き、同事務所内にも右河村が伴って来た会計事務員一名を残した状態のもと、その間隙を縫って、三階からごくわずかな時間内に八階の前記会議室まで上下して慌ただしく実行されたものであること、そのためもあって、判示点火の際には、被告人は、二本目にしてようやく火のついたマッチでバインダーにより閉じられていた一冊の簿冊のうちのたった一枚の紙が燃えて行くのを見ると会議室の戸を閉めることさえ忘れて直ちに同所を立去っており、もとより前記会計帳簿類が炎を上げて燃えさかり本件壁へ延焼しようとする様子など全く見届けてはいなかったこと、本件放火後本件ビル管理関係者の消化活動が行われ、間もなく、被告人は、前記会議室に駆けつけて来ているが、その際、同室内の状況等を見て頭を抱えてしゃがみ込んで泣き崩れており、右は、被告人において、当初の意図に反し予想外の事の重大な発展に驚愕したと見る余地も十分にあること、以上の諸事実も認められるのである。なお、被告人の司法警察員に対する昭和六二年五月一五日付供述調書中には「私は火を付ける時ビル全体は燃えることはないだろうが、関係書類を含め、八階の半分位は燃えるだろう、そのうちに消防車が来て消してくれるだろうと思いました。」と、次いで同月二〇日付供述調書中には「書類ばかりが燃えるのでなく、八階の部分は燃えると思いましたが、昼間であり消防車が早く来てくれれば人命にまでかかわりはないだろうと思いました。」と各記載されてあるが、右はいずれも被告人において何故に本件ビルの八階の半分ないし全部が燃えると思ったのかその説明が著しく不十分であるなど、右のそれぞれのくだりは如何にも唐突な感を免れず、また、被告人の検察官に対する同年六月三日付供述調書中にも、それ以前の現住建造物等放火の犯意についての前記否認調書というべきものの基調に反して、これまた卒然と「会議室は何度か使っていますからその書類を置いたところの壁が坂(「板」の誤記と認める。)でできていることも知っていました。ですから私が火をつけた書類が燃え広がればやがてその机や壁にも燃えうつて(傍点の部分は原文のまま、移っての意であろうか。)ゆくことはわかりました。」とあり、前同様、犯意の説明にしては具体性を欠き著しく説得力がないばかりか、右の箇所にすぐ続けて「しかし、私はそのときはとにかく検査の書類が燃えて河村先生の監査ができなくなればいいことばかり頭にあってそういう当然の結果については深く考えずに火をつけてしまいました。」と前の箇所と矛盾するかのような部分もあり、右検面調書を全体的にどう理解して読むべきかいささか悩まざるを得ないが、いずれにしても右各員面及び検面調書中の右それぞれ指摘した部分は、既に説示した本件犯行の動機その他の前記諸事実に照らしても、証拠価値の無きに等しいか、あるいは極めて証明力の薄いものと言わざるを得ない。以上のとおりであって、本件においては、被告人に現住建造物等に放火しようとする犯意があったとするには著しく証明不十分というべく、単に会計帳簿類を焼失させようとする犯意しか認定できないので、判示のとおり、予備的に追加された訴因である建造物等以外放火罪を認定した次第である。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法一一〇条一項に該当するので、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役二年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数のうち五〇日を右刑に算入し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判の確定の日から三年間右刑の執行を猶予することとする。

(量刑の理由)

被告人は、判示のとおり、自己の担当していた経理事務処理の遅延を糊塗するというだけのため、あさはかにも、狂言の爆弾騒ぎまで惹き起こした末、遂に本件放火を敢行したものであって、その動機は短絡的かつ身勝手なもので酌量すべき点などなく、右犯行態様も、前述のとおり、本件ビル自体までの焼燬はこれを認識・認容していなかったとはいえ、点火した会計帳簿類は同ビルの一部を構成する板壁に接しており、炎は現に右板壁に燃え移り、その火勢を拡大しつつあったもので、幸いにして同ビル管理関係の従業員により早期に発見、消化され、ぼや程度で終わったものの、右発見等が遅れれば大事に至りかねない極めて危険なものであり、もとより前記勤務先や本件ビルの所有・管理者などの側に何らの落度もないことをも併せ考えると、その犯情は甚だ芳しくないが、他方、被告人は本件により身柄の拘束を受け、その間自らを顧みてその非を十分悟り、本件犯行を深く反省、悔悟し、当公判廷において、今後は見栄を張ることなどなく二度と過ちを犯さない旨誓っていること、被告人は、本件ビル側に火災による損害賠償の処理をすることを約した前記勤務先との間で示談を成立させ、既に示談金の全額である一八〇万円も支払済みであること、両親も被告人の今後の更生・監督方に協力する旨約していること、被告人には前科、前歴が全くないこと等被告人に有利に斟酌すべき諸事情も認められるので、主文のとおり量刑した次第である。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 反町宏 裁判官 髙麗邦彦 平木正洋)

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